草枕(8)
八
御茶の
老人の部屋は、余が
和尚は虎の皮の上へ坐った。虎の皮の尻尾が余の
「
「いや、
「この
老人は
「こんな
「はああ」となんともかとも要領を得ぬ返事をする。
「なんの、和尚さん。このかたは
「おお
「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。
「いや、例の西洋画じゃ」と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。
「ははあ、洋画か。すると、あの
「いえ、詰らんものです」と若い男がこの時ようやく口を開いた。
「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」と老人が若い男に聞く。言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。
「なあに、見ていただいたんじゃないですが、
「ふん、そうか――さあ御茶が
「
「これは面白い」と余も簡単に
「杢兵衛はどうも
取り上げて、
老人はいつの間にやら、
「御客さんが、
「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも
かいてくれなら、かかぬ事もないが、この
「襖には向かないでしょう」
「向かんかな。そうさな、この
「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、
「その何とか云う池はどこにあるんですか」と余は若い男に念のため尋ねて置く。
「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、
「観海寺と云うと……」
「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を
「いつか御邪魔に
「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は
「どこぞへ出ましたかな、
「いいや、見えません」
「また
「どうも、……」と老人は
老人が
「和尚さん、あなたには、御目に
「なんじゃ、一体」
「
「へえ、どんな硯かい」
「
「いいえ、そりゃまだ見ん」
「
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、
「いい
「端渓で
「九つ?」と和尚
「これが春水の替え蓋」と老人は
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、
「やはり杏坪の方がいいかな」
「
「ハハハハ。
「ほんに」と和尚さんは
「
「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方が
「
「わしは知らん。そう
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に
とうとう
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。
なるほど
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの
「ワハハハハ。そうよ、この
若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の
もしこの硯について人の眼を
老人は
「この
なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く
「なるほど結構です。
「
「分りゃしません」と打ち
「隠居さん、どうもこの色が実に
「いいや、
「そうじゃろ。こないなのは
「
「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」
「へへへへ。
「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」
「
「隠居さん。吉田まで送って御やり」
「普段なら、年は取っとるし、まあ
「
若い男はこの老人の
「なあに、送って貰うがいい。
「はい、
若い男は今度は別に辞退もしない。ただ黙っている。
「支那の方へおいでですか」と余はちょっと聞いて見た。
「ええ」
ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから
「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」
老人は当人に代って、満洲の
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底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月17日公開
2004年2月26日修正
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