七
寒い。手拭を下げて、湯壺へ下る。
三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は御影で敷き詰めた、真中を四尺ばかりの深さに掘り抜いて、豆腐屋ほどな湯槽を据える。槽とは云うもののやはり石で畳んである。鉱泉と名のつく以上は、色々な成分を含んでいるのだろうが、色が純透明だから、入り心地がよい。折々は口にさえふくんで見るが別段の味も臭もない。病気にも利くそうだが、聞いて見ぬから、どんな病に利くのか知らぬ。もとより別段の持病もないから、実用上の価値はかつて頭のなかに浮んだ事がない。ただ這入る度に考え出すのは、白楽天の温泉水滑洗凝脂と云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。またこの気持を出し得ぬ温泉は、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。
すぽりと浸かると、乳のあたりまで這入る。湯はどこから湧いて出るか知らぬが、常でも槽の縁を奇麗に越している。春の石は乾くひまなく濡れて、あたたかに、踏む足の、心は穏やかに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠めて、ひそかに春を潤おすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て籠められた湯気は、床から天井を隈なく埋めて、隙間さえあれば、節穴の細きを厭わず洩れ出でんとする景色である。
秋の霧は冷やかに、たなびく靄は長閑に、夕餉炊く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。様々の憐れはあるが、春の夜の温泉の曇りばかりは、浴するものの肌を、柔らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわりはせぬが、薄絹を一重破れば、何の苦もなく、下界の人と、己れを見出すように、浅きものではない。一重破り、二重破り、幾重を破り尽すともこの煙りから出す事はならぬ顔に、四方よりわれ一人を、温かき虹の中に埋め去る。酒に酔うと云う言葉はあるが、煙りに酔うと云う語句を耳にした事がない。あるとすれば、霧には無論使えぬ、霞には少し強過ぎる。ただこの靄に、春宵の二字を冠したるとき、始めて妥当なるを覚える。
余は湯槽のふちに仰向の頭を支えて、透き徹る湯のなかの軽き身体を、出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂わして見た。ふわり、ふわりと魂がくらげのように浮いている。世の中もこんな気になれば楽なものだ。分別の錠前を開けて、執着の栓張をはずす。どうともせよと、湯泉のなかで、湯泉と同化してしまう。流れるものほど生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂まで流していれば、基督の御弟子となったよりありがたい。なるほどこの調子で考えると、土左衛門は風流である。スウィンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が、まるで平和ではほとんど神話か比喩になってしまう。痙攣的な苦悶はもとより、全幅の精神をうち壊わすが、全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。
湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門の賛を作って見る。
雨が降ったら濡れるだろう。
霜が下りたら冷たかろ。
土のしたでは暗かろう。
浮かば波の上、
沈まば波の底、
春の水なら苦はなかろ。
と口のうちで小声に
誦しつつ
漫然と浮いていると、どこかで
弾く三味線の
音が聞える。美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた
試しがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の
湯壺の中で、
魂まで春の
温泉に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。遠いから何を
唄って、何を弾いているか無論わからない。そこに何だか
趣がある。
音色の落ちついているところから察すると、
上方の
検校さんの
地唄にでも聴かれそうな
太棹かとも思う。
小供の時分、門前に
万屋と云う酒屋があって、そこに
御倉さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の
御浚いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に
控えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は
周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある
恰好を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた
鉄灯籠が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の
頑固爺のようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、
苔深き地を
抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、
独り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに
膝を
容るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を
睨めて、この草の
香を
臭いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
御倉さんはもう赤い
手絡の時代さえ通り越して、だいぶんと
世帯じみた顔を、帳場へ
曝してるだろう。
聟とは
折合がいいか知らん。
燕は年々帰って来て、
泥を
啣んだ
嘴を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の
香とはどうしても想像から切り離せない。
三本の松はいまだに
好い
恰好で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、
昔し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。
御倉さんの
旅の衣は鈴懸のと云う、
日ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
三味の
音が思わぬパノラマを余の
眼前に展開するにつけ、余は
床しい過去の
面のあたりに立って、二十年の昔に住む、
頑是なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと
開いた。
誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に
注ぐ。
湯槽の
縁の最も入口から、
隔たりたるに頭を乗せているから、
槽に
下る段々は、
間二丈を隔てて
斜めに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を
遶る
雨垂の音のみが聞える。三味線はいつの
間にかやんでいた。
やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を
照すものは、ただ一つの小さき
釣り
洋灯のみであるから、この隔りでは澄切った空気を
控えてさえ、
確と
物色はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、
濃かなる雨に
抑えられて、
逃場を失いたる
今宵の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす
灯影を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。
黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は
天鵞のごとく
柔かと見えて、足音を
証にこれを
律すれば、動かぬと評しても
差支ない。が輪廓は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格については、
存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に
在る事を
覚った。
注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は
遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。
漲ぎり渡る湯煙りの、やわらかな光線を一
分子ごとに含んで、
薄紅の暖かに見える奥に、
漾わす黒髪を雲とながして、あらん限りの
背丈を、すらりと
伸した女の姿を見た時は、礼儀の、
作法の、
風紀のと云う感じはことごとく、わが
脳裏を去って、ただひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。
古代
希臘の彫刻はいざ知らず、
今世仏国の画家が命と頼む裸体画を見るたびに、あまりに
露骨な肉の美を、極端まで描がき尽そうとする
痕迹が、ありありと見えるので、どことなく
気韻に
乏しい心持が、今までわれを苦しめてならなかった。しかしその折々はただどことなく下品だと評するまでで、なぜ下品であるかが、解らぬ
故、吾知らず、答えを得るに
煩悶して
今日に至ったのだろう。肉を
蔽えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば
卑しくなる。今の世の裸体画と云うはただかくさぬと云う卑しさに、技巧を
留めておらぬ。
衣を奪いたる姿を、そのままに写すだけにては、物足らぬと見えて、
飽くまでも
裸体を、衣冠の世に押し出そうとする。服をつけたるが、人間の常態なるを忘れて、赤裸にすべての権能を附与せんと試みる。
十分で事足るべきを、
十二分にも、
十五分にも、どこまでも進んで、ひたすらに、裸体であるぞと云う感じを強く
描出しようとする。技巧がこの極端に達したる時、人はその
観者を
強うるを
陋とする。うつくしきものを、いやが上に、うつくしくせんと
焦せるとき、うつくしきものはかえってその
度を減ずるが例である。人事についても満は損を招くとの
諺はこれがためである。
放心と無邪気とは余裕を示す。余裕は
画において、詩において、もしくは文章において、
必須の条件である。
今代芸術の一大
弊竇は、いわゆる文明の潮流が、いたずらに芸術の士を駆って、
拘々として随処に
齷齪たらしむるにある。裸体画はその好例であろう。都会に
芸妓と云うものがある。色を売りて、人に
媚びるを商売にしている。彼らは
嫖客に対する時、わが容姿のいかに相手の
瞳子に映ずるかを
顧慮するのほか、何らの表情をも
発揮し得ぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる
能わざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと
力めている。
今余が面前に
娉と現われたる姿には、一塵もこの
俗埃の眼に
遮ぎるものを帯びておらぬ。常の人の
纏える
衣装を脱ぎ捨てたる
様と云えばすでに
人界に
堕在する。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる
神代の姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。
室を
埋むる湯煙は、埋めつくしたる
後から、絶えず
湧き上がる。春の
夜の
灯を半透明に
崩し拡げて、部屋一面の
虹霓の世界が
濃かに揺れるなかに、
朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を
暈して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その
輪廓を見よ。
頸筋を
軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と
分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また
滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る
勢を
後ろへ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に
傾く。
逆に受くる
膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの
踵につく頃、
平たき足が、すべての
葛藤を、二枚の
蹠に安々と始末する。世の中にこれほど
錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど
柔らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の
霊氛のなかに
髣髴として、
十分の美を
奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。
片鱗を
溌墨淋漓の
間に点じて、
竜の
怪を、
楮毫のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、
冥なる調子とを
具えている。六々三十六
鱗を丁寧に描きたる
竜の、
滑稽に落つるが事実ならば、
赤裸々の肉を
浄洒々に眺めぬうちに神往の
余韻はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、
桂の
都を逃れた
月界の
嫦娥が、
彩虹の
追手に取り囲まれて、しばらく
躊躇する姿と
眺めた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの
嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思う
刹那に、緑の髪は、波を切る
霊亀の尾のごとくに風を起して、
莽と
靡いた。
渦捲く煙りを
劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に
向へ
遠退く。余はがぶりと湯を
呑んだまま
槽の中に
突立つ。驚いた波が、胸へあたる。
縁を越す
湯泉の音がさあさあと鳴る。
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底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月17日公開
2004年2月26日修正
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