草枕(5)
五
「失礼ですが
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、
「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう
「
「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな
「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから
「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は
「おい、もう少し、
「痛うがすかい。
「我慢は
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、
すでに
その上この親方がただの親方ではない。そとから
彼は
最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な
「
「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「
「へえ、どこにいるんですい」
「
「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな
「
「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の
「そうかい」
「そうかいどころの
「そうかな」
「
「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍
「よく痛くなる
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く
「どうして」
「旦那あの娘は
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、
「頭はよそう」
「
親方は
「どうです、好い心持でしょう」
「非常な
「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに
「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「
「その坊主たあ、どの坊主だい」
「
「
「そうか、
「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、
「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。
「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で
「どうかしたのかい」
「そんなに
「へええ」
「
「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって
「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、
この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で
こう考えると、この親方もなかなか
「御免、一つ
と
「
「いんにゃ、
「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「
「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは頭は
「腕は鈍いが、酒だけ強いのは
「
「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。
「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
「
「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ? はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。
「
「通じねえ、
「
「いくら、和尚さんの
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう
「石段をあがると、何でも
「いやもう少し遊んで行って
「勝手にしろ、口の
「
「何だと?」
青い頭はすでに
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底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月17日公開
2004年2月26日修正
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