二
「おい」と声を掛けたが返事がない。
軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切ってある。向う側は見えない。五六足の草鞋が淋しそうに庇から吊されて、屈托気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つばかり並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばっている。
「おい」とまた声をかける。土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれていた鶏が、驚ろいて眼をさます。ククク、クククと騒ぎ出す。敷居の外に土竈が、今しがたの雨に濡れて、半分ほど色が変ってる上に、真黒な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。幸い下は焚きつけてある。
返事がないから、無断でずっと這入って、床几の上へ腰を卸した。鶏は羽摶きをして臼から飛び下りる。今度は畳の上へあがった。障子がしめてなければ奥まで馳けぬける気かも知れない。雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。まるで余を狐か狗のように考えているらしい。床几の上には一升枡ほどな煙草盆が閑静に控えて、中にはとぐろを捲いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、すこぶる悠長に燻っている。雨はしだいに収まる。
しばらくすると、奥の方から足音がして、煤けた障子がさらりと開く。なかから一人の婆さんが出る。
どうせ誰か出るだろうとは思っていた。竈に火は燃えている。菓子箱の上に銭が散らばっている。線香は呑気に燻っている。どうせ出るにはきまっている。しかし自分の見世を明け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。
「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおおだいぶお濡れなさった。今火を焚いて乾かして上げましょ」
「そこをもう少し燃しつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと二声で鶏を追い下げる。ここここと馳け出した夫婦は、焦茶色の畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞を垂れた。
「まあ一つ」と婆さんはいつの間にか刳り抜き盆の上に茶碗をのせて出す。茶の色の黒く焦げている底に、一筆がきの梅の花が三輪無雑作に焼き付けられている。
「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻ねじと微塵棒を持ってくる。糞はどこぞに着いておらぬかと眺めて見たが、それは箱のなかに取り残されていた。
婆さんは袖無しの上から、襷をかけて、竈の前へうずくまる。余は懐から写生帖を取り出して、婆さんの横顔を写しながら、話しをしかける。
「閑静でいいね」
「へえ、御覧の通りの山里で」
「鶯は鳴くかね」
「ええ毎日のように鳴きます。此辺は夏も鳴きます」
「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく今日は――先刻の雨でどこぞへ逃げました」
折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が颯と風を起して一尺あまり吹き出す。
「さあ、御あたり。さぞ御寒かろ」と云う。軒端を見ると青い煙りが、突き当って崩れながらに、微かな痕をまだ板庇にからんでいる。
「ああ、好い心持ちだ、御蔭で生き返った」
「いい具合に雨も晴れました。そら天狗巌が見え出しました」
逡巡として曇り勝ちなる春の空を、もどかしとばかりに吹き払う山嵐の、思い切りよく通り抜けた前山の一角は、未練もなく晴れ尽して、老嫗の指さす方にと、あら削りの柱のごとく聳えるのが天狗岩だそうだ。
余はまず天狗巌を眺めて、次に婆さんを眺めて、三度目には半々に両方を見比べた。画家として余が頭のなかに存在する婆さんの顔は高砂の媼と、蘆雪のかいた山姥のみである。蘆雪の図を見たとき、理想の婆さんは物凄いものだと感じた。紅葉のなかか、寒い月の下に置くべきものと考えた。宝生の別会能を観るに及んで、なるほど老女にもこんな優しい表情があり得るものかと驚ろいた。あの面は定めて名人の刻んだものだろう。惜しい事に作者の名は聞き落したが、老人もこうあらわせば、豊かに、穏やかに、あたたかに見える。金屏にも、春風にも、あるは桜にもあしらって差し支ない道具である。余は天狗岩よりは、腰をのして、手を翳して、遠く向うを指している、袖無し姿の婆さんを、春の山路の景物として恰好なものだと考えた。余が写生帖を取り上げて、今しばらくという途端に、婆さんの姿勢は崩れた。
手持無沙汰に写生帖を、火にあてて乾かしながら、
「御婆さん、丈夫そうだね」と訊ねた。
「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、苧もうみます、御団子の粉も磨きます」
この御婆さんに石臼を挽かして見たくなった。しかしそんな注文も出来ぬから、
「ここから那古井までは一里足らずだったね」と別な事を聞いて見る。
「はい、二十八丁と申します。旦那は湯治に御越しで……」
「込み合わなければ、少し逗留しようかと思うが、まあ気が向けばさ」
「いえ、戦争が始まりましてから、頓と参るものは御座いません。まるで締め切り同様で御座います」
「妙な事だね。それじゃ泊めてくれないかも知れんね」
「いえ、御頼みになればいつでも宿めます」
「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、志保田さんと御聞きになればすぐわかります。村のものもちで、湯治場だか、隠居所だかわかりません」
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は始めてで」
「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
会話はちょっと途切れる。帳面をあけて先刻の鶏を静かに写生していると、落ちついた耳の底へじゃらんじゃらんと云う馬の鈴が聴え出した。この声がおのずと、拍子をとって頭の中に一種の調子が出来る。眠りながら、夢に隣りの臼の音に誘われるような心持ちである。余は鶏の写生をやめて、同じページの端に、
春風や惟然が耳に馬の鈴
と書いて見た。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて
長閑な
馬子唄が、春に
更けた
空山一路の夢を破る。憐れの底に気楽な響がこもって、どう考えても
画にかいた声だ。
馬子唄の鈴鹿越ゆるや春の雨
と、今度は
斜に書きつけたが、書いて見て、これは自分の句でないと気がついた。
「また誰ぞ来ました」と婆さんが
半ば
独り
言のように云う。
ただ
一条の春の路だから、行くも帰るも皆近づきと見える。最前
逢うた五六匹のじゃらんじゃらんもことごとくこの婆さんの腹の中でまた誰ぞ来たと思われては山を
下り、思われては山を登ったのだろう。路
寂寞と
古今の春を
貫いて、花を
厭えば足を着くるに地なき
小村に、婆さんは
幾年の昔からじゃらん、じゃらんを数え尽くして、
今日の
白頭に至ったのだろう。
馬子唄や白髪も染めで暮るる春
と次のページへ
認めたが、これでは自分の感じを云い
終せない、もう少し
工夫のありそうなものだと、鉛筆の先を見詰めながら考えた。何でも
白髪という字を入れて、
幾代の節と云う句を入れて、
馬子唄という題も入れて、春の
季も加えて、それを十七字に
纏めたいと工夫しているうちに、
「はい、今日は」と実物の馬子が店先に
留って大きな声をかける。
「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、
鍛冶町を通ったら、娘に
霊厳寺の
御札を一枚もらってきておくれなさい」
「はい、貰ってきよ。一枚か。――
御秋さんは
善い所へ片づいて仕合せだ。な、
御叔母さん」
「ありがたい事に
今日には困りません。まあ仕合せと云うのだろか」
「仕合せとも、御前。あの
那古井の嬢さまと比べて御覧」
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を
撫でる。
枝繁き山桜の葉も花も、深い空から落ちたままなる雨の
塊まりを、しっぽりと宿していたが、この時わたる風に足をすくわれて、いたたまれずに、
仮りの
住居を、さらさらと
転げ落ちる。馬は驚ろいて、長い
鬣を
上下に振る。
「コーラッ」と
叱りつける源さんの声が、じゃらん、じゃらんと共に余の
冥想を破る。
御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ
眼前に散らついている。
裾模様の
振袖に、
高島田で、馬に乗って……」
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、
御叔母さん」
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に
斑が出来ました」
余はまた写生帖をあける。この景色は
画にもなる、詩にもなる。心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見てしたり顔に、
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には
衣装も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが、花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの
面影が
忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を
早速取り
崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から
奇麗に立ち
退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、
朦朧と胸の底に残って、
棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を
曳く
彗星の何となく妙な気になる。
「それじゃ、まあ御免」と源さんが
挨拶する。
「帰りにまた
御寄り。あいにくの降りで
七曲りは難義だろ」
「はい、少し骨が折れよ」と源さんは
歩行出す。源さんの馬も歩行出す。じゃらんじゃらん。
「あれは
那古井の男かい」
「はい、那古井の源兵衛で御座んす」
「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、
峠を越したのかい」
「志保田の嬢様が城下へ
御輿入のときに、嬢様を
青馬に乗せて、源兵衛が
覊絏を
牽いて通りました。――月日の立つのは早いもので、もう今年で五年になります」
鏡に
対うときのみ、わが頭の白きを
喞つものは幸の部に属する人である。指を折って始めて、五年の流光に、転輪の
疾き
趣を解し得たる婆さんは、人間としてはむしろ
仙に近づける方だろう。余はこう答えた。
「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。
湯治場へ御越しなされば、きっと出て御挨拶をなされましょう」
「はあ、今では里にいるのかい。やはり
裾模様の
振袖を着て、高島田に
結っていればいいが」
「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外
真面目である。非人情の旅にはこんなのが出なくては面白くない。婆さんが云う。
「嬢様と
長良の
乙女とはよく似ております」
「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「
昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい
長者の娘が御座りましたそうな」
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に
懸想して、あなた」
「なるほど」
「ささだ男に
靡こうか、ささべ男に靡こうかと、娘はあけくれ思い
煩ったが、どちらへも靡きかねて、とうとう
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を
咏んで、
淵川へ身を投げて
果てました」
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな
古雅な言葉で、こんな古雅な話をきこうとは思いがけなかった。
「これから五丁東へ
下ると、
道端に
五輪塔が御座んす。ついでに
長良の
乙女の墓を見て御行きなされ」
余は心のうちに是非見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が
祟りました。一人は嬢様が京都へ修行に出て
御出での頃
御逢いなさったので、一人はここの城下で随一の物持ちで御座んす」
「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な
理由もありましたろが、親ご様が無理にこちらへ取りきめて……」
「めでたく、
淵川へ身を投げんでも済んだ訳だね」
「ところが――
先方でも器量望みで
御貰いなさったのだから、随分大事にはなさったかも知れませぬが、もともと
強いられて御出なさったのだから、どうも
折合がわるくて、御親類でもだいぶ御心配の様子で御座んした。ところへ今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれました。それから嬢様はまた那古井の方へ御帰りになります。世間では嬢様の事を不人情だとか、薄情だとか色々申します。もとは
極々内気の優しいかたが、この頃ではだいぶ気が荒くなって、何だか心配だと源兵衛が来るたびに申します。……」
これからさきを聞くと、せっかくの
趣向が
壊れる。ようやく仙人になりかけたところを、誰か来て
羽衣を帰せ帰せと
催促するような気がする。
七曲りの険を
冒して、やっとの
思で、ここまで来たものを、そうむやみに俗界に引きずり
下されては、
飄然と家を出た
甲斐がない。世間話しもある程度以上に立ち入ると、浮世の
臭いが
毛孔から
染込んで、
垢で
身体が重くなる。
「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚
床几の上へかちりと投げ出して立ち上がる。
「
長良の五輪塔から右へ
御下りなさると、六丁ほどの近道になります。
路はわるいが、御若い方にはその
方がよろしかろ。――これは多分に御茶代を――気をつけて御越しなされ」
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底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月17日公開
2004年2月26日修正
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