草枕(10)
十
鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は
池をめぐりては
日本の菫は眠っている感じである。「
余は草を
何だか
眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い
余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。
今度は思い切って、懸命に
二間余りを
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。
こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を
がさりがさりと足音がする。
「よい御天気で」と
「
「ああ。この池でも
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、
「え? うん
「はあい。こうやって
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。
「四日に一
「アハハハハ。馬が
「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から? どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、
「志保田って、あの
「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、
「梵論字と云うと
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の
「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は
「その
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに
「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、
「へええ」
「全く
「ハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの
「うちにいるのかい」
「いいえ、去年
「ふん」と余は煙草の
一丈余りの
奇体なもので、影だけ
余が視線は、
余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は
また驚かされた。
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底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年12月1日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年2月17日公開
2004年2月26日修正
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