四
小六の苦にしていた佐伯からは、予期の通り二三日して返事があったが、それは極めて簡単なもので、端書でも用の足りるところを、鄭重に封筒へ入れて三銭の切手を貼った、叔母の自筆に過ぎなかった。
役所から帰って、筒袖の仕事着を、窮屈そうに脱ぎ易えて、火鉢の前へ坐るや否や、抽出から一寸ほどわざと余して差し込んであった状袋に眼が着いたので、御米の汲んで出す番茶を一口呑んだまま、宗助はすぐ封を切った。
「へえ、安さんは神戸へ行ったんだってね」と手紙を読みながら云った。
「いつ?」と御米は湯呑を夫の前に出した時の姿勢のままで聞いた。
「いつとも書いてないがね。何しろ遠からぬうちには帰京仕るべく候間と書いてあるから、もうじき帰って来るんだろう」
「遠からぬうちなんて、やっぱり叔母さんね」
宗助は御米の批評に、同意も不同意も表しなかった。読んだ手紙を巻き納めて、投げるようにそこへ放り出して、四五日目になる、ざらざらした腮を、気味わるそうに撫で廻した。
御米はすぐその手紙を拾ったが、別に読もうともしなかった。それを膝の上へ乗せたまま、夫の顔を見て、
「遠からぬうちには帰京仕るべく候間、どうだって云うの」と聞いた。
「いずれ帰ったら、安之助と相談して何とか御挨拶を致しますと云うのさ」
「遠からぬうちじゃ曖昧ね。いつ帰るとも書いてなくって」
「いいや」
御米は念のため、膝の上の手紙を始めて開いて見た。そうしてそれを元のように畳んで、
「ちょっとその状袋を」と手を夫の方へ出した。宗助は自分と火鉢の間に挟まっている青い封筒を取って細君に渡した。御米はそれをふっと吹いて、中を膨らまして手紙を収めた。そうして台所へ立った。
宗助はそれぎり手紙の事には気を留めなかった。今日役所で同僚が、この間英吉利から来遊したキチナー元帥に、新橋の傍で逢ったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。自分の過去から引き摺ってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらい懸け隔たっている。
こう考えて宗助はしきりに煙草を吹かした。表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲って来るような音がする。それが時々やむと、やんだ間は寂として、吹き荒れる時よりはなお淋しい。宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘が鳴り出す時節だと思った。
台所へ出て見ると、細君は七輪の火を赤くして、肴の切身を焼いていた。清は流し元に曲んで漬物を洗っていた。二人とも口を利かずにせっせと自分のやる事をやっている。宗助は障子を開けたなり、しばらく肴から垂る汁か膏の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉てて元の座へ戻った。細君は眼さえ肴から離さなかった。
食事を済まして、夫婦が火鉢を間に向い合った時、御米はまた
「佐伯の方は困るのね」と云い出した。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」
「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣っておこうよ」
「小六さんが怒ってよ。よくって」と御米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝を着物の襟へ差した。
中一日置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙の尻に、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をして、毎日役所へ出てはまた役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出かけるなどという億劫な事は滅多になかった。客はほとんど来ない。用のない時は清を十時前に寝かす事さえあった。夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間ぐらい話をした。話の題目は彼らの生活状態に相応した程度のものであった。けれども米屋の払を、この三十日にはどうしたものだろうという、苦しい世帯話は、いまだかつて一度も彼らの口には上らなかった。と云って、小説や文学の批評はもちろんの事、男と女の間を陽炎のように飛び廻る、花やかな言葉のやりとりはほとんど聞かれなかった。彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のようにも見えた。または最初から、色彩の薄い極めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために寄り合ったようにも見えた。
上部から見ると、夫婦ともそう物に屈托する気色はなかった。それは彼らが小六の事に関して取った態度について見てもほぼ想像がつく。さすが女だけに御米は一二度、
「安さんは、まだ帰らないんでしょうかね。あなた今度の日曜ぐらいに番町まで行って御覧なさらなくって」と注意した事があるが、宗助は、
「うん、行っても好い」ぐらいな返事をするだけで、その行っても好い日曜が来ると、まるで忘れたように済ましている。御米もそれを見て、責める様子もない。天気が好いと、
「ちと散歩でもしていらっしゃい」と云う。雨が降ったり、風が吹いたりすると、
「今日は日曜で仕合せね」と云う。
幸にして小六はその後一度もやって来ない。この青年は、至って凝り性の神経質で、こうと思うとどこまでも進んで来るところが、書生時代の宗助によく似ている代りに、ふと気が変ると、昨日の事はまるで忘れたように引っ繰り返って、けろりとした顔をしている。そこも兄弟だけあって、昔の宗助にそのままである。それから、頭脳が比較的明暸で、理路に感情を注ぎ込むのか、または感情に理窟の枠を張るのか、どっちか分らないが、とにかく物に筋道を付けないと承知しないし、また一返筋道が付くと、その筋道を生かさなくってはおかないように熱中したがる。その上体質の割合に精力がつづくから、若い血気に任せて大抵の事はする。
宗助は弟を見るたびに、昔の自分が再び蘇生して、自分の眼の前に活動しているような気がしてならなかった。時には、はらはらする事もあった。また苦々しく思う折もあった。そう云う場合には、心のうちに、当時の自分が一図に振舞った苦い記憶を、できるだけしばしば呼び起させるために、とくに天が小六を自分の眼の前に据え付けるのではなかろうかと思った。そうして非常に恐ろしくなった。こいつもあるいはおれと同一の運命に陥るために生れて来たのではなかろうかと考えると、今度は大いに心がかりになった。時によると心がかりよりは不愉快であった。
けれども、今日まで宗助は、小六に対して意見がましい事を云った事もなければ、将来について注意を与えた事もなかった。彼の弟に対する待遇方はただ普通凡庸のものであった。彼の今の生活が、彼のような過去を有っている人とは思えないほどに、沈んでいるごとく、彼の弟を取り扱う様子にも、過去と名のつくほどの経験を有った年長者の素振は容易に出なかった。
宗助と小六の間には、まだ二人ほど男の子が挟まっていたが、いずれも早世してしまったので、兄弟とは云いながら、年は十ばかり違っている。その上宗助はある事情のために、一年の時京都へ転学したから、朝夕いっしょに生活していたのは、小六の十二三の時までである。宗助は剛情な聴かぬ気の腕白小僧としての小六をいまだに記憶している。その時分は父も生きていたし、家の都合も悪くはなかったので、抱車夫を邸内の長屋に住まわして、楽に暮していた。この車夫に小六よりは三つほど年下の子供があって、始終小六の御相手をして遊んでいた。ある夏の日盛りに、二人して、長い竿のさきへ菓子袋を括り付けて、大きな柿の木の下で蝉の捕りくらをしているのを、宗助が見て、兼坊そんなに頭を日に照らしつけると霍乱になるよ、さあこれを被れと云って、小六の古い夏帽を出してやった。すると、小六は自分の所有物を兄が無断で他にくれてやったのが、癪に障ったので、突然兼坊の受取った帽子を引ったくって、それを地面の上へ抛げつけるや否や、馳け上がるようにその上へ乗って、くしゃりと麦藁帽を踏み潰してしまった。宗助は縁から跣足で飛んで下りて、小六の頭を擲りつけた。その時から、宗助の眼には、小六が小悪らしい小僧として映った。
二年の時宗助は大学を去らなければならない事になった。東京の家へも帰えれない事になった。京都からすぐ広島へ行って、そこに半年ばかり暮らしているうちに父が死んだ。母は父よりも六年ほど前に死んでいた。だから後には二十五六になる妾と、十六になる小六が残っただけであった。
佐伯から電報を受け取って、久しぶりに出京した宗助は、葬式を済ました上、家の始末をつけようと思ってだんだん調べて見ると、あると思った財産は案外に少なくって、かえって無いつもりの借金がだいぶあったに驚ろかされた。叔父の佐伯に相談すると、仕方がないから邸を売るが好かろうと云う話であった。妾は相当の金をやってすぐ暇を出す事にきめた。小六は当分叔父の家に引き取って世話をして貰う事にした。しかし肝心の家屋敷はすぐ右から左へと売れる訳には行かなかった。仕方がないから、叔父に一時の工面を頼んで、当座の片をつけて貰った。叔父は事業家でいろいろな事に手を出しては失敗する、云わば山気の多い男であった。宗助が東京にいる時分も、よく宗助の父を説きつけては、旨い事を云って金を引き出したものである。宗助の父にも慾があったかも知れないが、この伝で叔父の事業に注ぎ込んだ金高はけっして少ないものではなかった。
父の亡くなったこの際にも、叔父の都合は元と余り変っていない様子であったが、生前の義理もあるし、またこう云う男の常として、いざと云う場合には比較的融通のつくものと見えて、叔父は快よく整理を引き受けてくれた。その代り宗助は自分の家屋敷の売却方についていっさいの事を叔父に一任してしまった。早く云うと、急場の金策に対する報酬として土地家屋を提供したようなものである。叔父は、
「何しろ、こう云うものは買手を見て売らないと損だからね」と云った。
道具類も積ばかり取って、金目にならないものは、ことごとく売り払ったが、五六幅の掛物と十二三点の骨董品だけは、やはり気長に欲しがる人を探さないと損だと云う叔父の意見に同意して、叔父に保管を頼む事にした。すべてを差し引いて手元に残った有金は、約二千円ほどのものであったが、宗助はそのうちの幾分を、小六の学資として、使わなければならないと気がついた。しかし月々自分の方から送るとすると、今日の位置が堅固でない当時、はなはだ実行しにくい結果に陥りそうなので、苦しくはあったが、思い切って、半分だけを叔父に渡して、何分宜しくと頼んだ。自分が中途で失敗ったから、せめて弟だけは物にしてやりたい気もあるので、この千円が尽きたあとは、またどうにか心配もできようしまたしてくれるだろうぐらいの不慥な希望を残して、また広島へ帰って行った。
それから半年ばかりして、叔父の自筆で、家はとうとう売れたから安心しろと云う手紙が来たが、いくらに売れたとも何とも書いてないので、折り返して聞き合せると、二週間ほど経っての返事に、優に例の立替を償うに足る金額だから心配しなくても好いとあった。宗助はこの返事に対して少なからず不満を感じたには感じたが、同じ書信の中に、委細はいずれ御面会の節云々とあったので、すぐにも東京へ行きたいような気がして、実はこうこうだがと、相談半分細君に話して見ると、御米は気の毒そうな顔をして、
「でも、行けないんだから、仕方がないわね」と云って、例のごとく微笑した。その時宗助は始めて細君から宣告を受けた人のように、しばらく腕組をして考えたが、どう工夫したって、抜ける事のできないような位地と事情の下に束縛されていたので、ついそれなりになってしまった。
仕方がないから、なお三四回書面で往復を重ねて見たが、結果はいつも同じ事で、版行で押したようにいずれ御面会の節を繰り返して来るだけであった。
「これじゃしようがないよ」と宗助は腹が立ったような顔をして御米を見た。三カ月ばかりして、ようやく都合がついたので、久し振りに御米を連れて、出京しようと思う矢先に、つい風邪を引いて寝たのが元で、腸窒扶斯に変化したため、六十日余りを床の上に暮らした上に、あとの三十日ほどは充分仕事もできないくらい衰えてしまった。
病気が本復してから間もなく、宗助はまた広島を去って福岡の方へ移らなければならない身となった。移る前に、好い機会だからちょっと東京まで出たいものだと考えているうちに、今度もいろいろの事情に制せられて、ついそれも遂行せずに、やはり下り列車の走る方に自己の運命を托した。その頃は東京の家を畳むとき、懐にして出た金は、ほとんど使い果たしていた。彼の福岡生活は前後二年を通じて、なかなかの苦闘であった。彼は書生として京都にいる時分、種々の口実の下に、父から臨時随意に多額の学資を請求して、勝手しだいに消費した昔をよく思い出して、今の身分と比較しつつ、しきりに因果の束縛を恐れた。ある時はひそかに過ぎた春を回顧して、あれが己の栄華の頂点だったんだと、始めて醒めた眼に遠い霞を眺める事もあった。いよいよ苦しくなった時、
「御米、久しく放っておいたが、また東京へ掛合ってみようかな」と云い出した。御米は無論逆いはしなかった。ただ下を向いて、
「駄目よ。だって、叔父さんに全く信用がないんですもの」と心細そうに答えた。
「向うじゃこっちに信用がないかも知れないが、こっちじゃまた向うに信用がないんだ」と宗助は威張って云い出したが、御米の俯目になっている様子を見ると、急に勇気が挫ける風に見えた。こんな問答を最初は月に一二返ぐらい繰り返していたが、後には二月に一返になり、三月に一返になり、とうとう、
「好いや、小六さえどうかしてくれれば。あとの事はいずれ東京へ出たら、逢った上で話をつけらあ。ねえ御米、そうすると、しようじゃないか」と云い出した。
「それで、好ござんすとも」と御米は答えた。
宗助は佐伯の事をそれなり放ってしまった。単なる無心は、自分の過去に対しても、叔父に向って云い出せるものでないと、宗助は考えていた。したがってその方の談判は、始めからいまだかつて筆にした事がなかった。小六からは時々手紙が来たが、極めて短かい形式的のものが多かった。宗助は父の死んだ時、東京で逢った小六を覚えているだけだから、いまだに小六を他愛ない小供ぐらいに想像するので、自分の代理に叔父と交渉させようなどと云う気は無論起らなかった。
夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪えかねて、抱き合って暖を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
二人の間には諦めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心ある妻の口を藉りて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵えた、過去という暗い大きな窖の中に落ちている。
彼らは自業自得で、彼らの未来を塗抹した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦らめて、ただ二人手を携えて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固より多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近頃の相場なら、捨売にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米は淋しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事宜しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方がつかないんだもの」と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れなくってよ」と御米が云う。
そう云われると、宗助も叔父の処置に一理あるようにも思われて、口では、
「そのつもりが好くないじゃないか」と答弁するようなものの、この問題はその都度しだいしだいに背景の奥に遠ざかって行くのであった。
夫婦がこんな風に淋しく睦まじく暮らして来た二年目の末に、宗助はもとの同級生で、学生時代には大変懇意であった杉原と云う男に偶然出逢った。杉原は卒業後高等文官試験に合格して、その時すでに或省に奉職していたのだが、公務上福岡と佐賀へ出張することになって、東京からわざわざやって来たのである。宗助は所の新聞で、杉原のいつ着いて、どこに泊っているかをよく知ってはいたが、失敗者としての自分に顧みて、成効者の前に頭を下げる対照を恥ずかしく思った上に、自分は在学当時の旧友に逢うのを、特に避けたい理由を持っていたので、彼の旅館を訪ねる気は毛頭なかった。
ところが杉原の方では、妙な引掛りから、宗助のここに燻ぶっている事を聞き出して、強いて面会を希望するので、宗助もやむを得ず我を折った。宗助が福岡から東京へ移れるようになったのは、全くこの杉原の御蔭である。杉原から手紙が来て、いよいよ事がきまったとき、宗助は箸を置いて、
「御米、とうとう東京へ行けるよ」と云った。
「まあ結構ね」と御米が夫の顔を見た。
東京に着いてから二三週間は、眼の回るように日が経った。新らしく世帯を有って、新らしい仕事を始める人に、あり勝ちな急忙しなさと、自分達を包む大都の空気の、日夜劇しく震盪する刺戟とに駆られて、何事をもじっと考える閑もなく、また落ちついて手を下す分別も出なかった。
夜汽車で新橋へ着いた時は、久しぶりに叔父夫婦の顔を見たが、夫婦とも灯のせいか晴れやかな色には宗助の眼に映らなかった。途中に事故があって、着の時間が珍らしく三十分ほど後れたのを、宗助の過失ででもあるかのように、待草臥れた気色であった。
宗助がこの時叔母から聞いた言葉は、
「おや宗さん、しばらく御目に掛からないうちに、大変御老けなすった事」という一句であった。御米はその折始めて叔父夫婦に紹介された。
「これがあの……」と叔母は逡巡って宗助の方を見た。御米は何と挨拶のしようもないので、無言のままただ頭を下げた。
小六も無論叔父夫婦と共に二人を迎いに来ていた。宗助は一眼その姿を見たとき、いつの間にか自分を凌ぐように大きくなった、弟の発育に驚ろかされた。小六はその時中学を出て、これから高等学校へ這入ろうという間際であった。宗助を見て、「兄さん」とも「御帰りなさい」とも云わないで、ただ不器用に挨拶をした。
宗助と御米は一週ばかり宿屋住居をして、それから今の所に引き移った。その時は叔父夫婦がいろいろ世話を焼いてくれた。細々しい台所道具のようなものは買うまでもあるまい、古いのでよければと云うので、小人数に必要なだけ一通り取り揃えて送って来た。その上、
「御前も新世帯だから、さぞ物要が多かろう」と云って金を六十円くれた。
家を持ってかれこれ取り紛れているうちに、早半月余も経ったが、地方にいる時分あんなに気にしていた家邸の事は、ついまだ叔父に言い出さずにいた。ある時御米が、
「あなたあの事を叔父さんにおっしゃって」と聞いた。宗助はそれで急に思い出したように、
「うん、まだ云わないよ」と答えた。
「妙ね、あれほど気にしていらしったのに」と御米がうす笑をした。
「だって、落ちついて、そんな事を云い出す暇がないんだもの」と宗助が弁解した。
また十日ほど経った。すると今度は宗助の方から、
「御米、あの事はまだ云わないよ。どうも云うのが面倒で厭になった」と云い出した。
「厭なのを無理におっしゃらなくってもいいわ」と御米が答えた。
「好いかい」と宗助が聞き返した。
「好いかいって、もともとあなたの事じゃなくって。私は先からどうでも好いんだわ」と御米が答えた。
その時宗助は、
「じゃ、鹿爪らしく云い出すのも何だか妙だから、そのうち機会があったら、聞くとしよう。なにそのうち聞いて見る機会がきっと出て来るよ」と云って延ばしてしまった。
小六は何不足なく叔父の家に寝起していた。試験を受けて高等学校へ這入れれば、寄宿へ入舎しなければならないと云うので、その相談まですでに叔父と打合せがしてあるようであった。新らしく出京した兄からは別段学資の世話を受けないせいか、自分の身の上については叔父ほどに親しい相談も持ち込んで来なかった。従兄弟の安之助とは今までの関係上大変仲が好かった。かえってこの方が兄弟らしかった。
宗助は自然叔父の家に足が遠くなるようになった。たまに行っても、義理一遍の訪問に終る事が多いので、帰り路にはいつもつまらない気がしてならなかった。しまいには時候の挨拶を済ますと、すぐ帰りたくなる事もあった。こう云う時には三十分と坐って、世間話に時間を繋ぐのにさえ骨が折れた。向うでも何だか気が置けて窮屈だと云う風が見えた。
「まあいいじゃありませんか」と叔母が留めてくれるのが例であるが、そうすると、なおさらいにくい心持がした。それでも、たまには行かないと、心のうちで気が咎めるような不安を感ずるので、また行くようになった。折々は、
「どうも小六が御厄介になりまして」とこっちから頭を下げて礼を云う事もあった。けれども、それ以上は、弟の将来の学資についても、また自分が叔父に頼んで、留守中に売り払って貰った地所家作についても、口を切るのがつい面倒になった。しかし宗助が興味を有たない叔父の所へ、不精無精にせよ、時たま出掛けて行くのは、単に叔父甥の血属関係を、世間並に持ち堪えるための義務心からではなくって、いつか機会があったら、片をつけたい或物を胸の奥に控えていた結果に過ぎないのは明かであった。
「宗さんはどうもすっかり変っちまいましたね」と叔母が叔父に話す事があった。すると叔父は、
「そうよなあ。やっぱり、ああ云う事があると、永くまで後へ響くものだからな」と答えて、因果は恐ろしいと云う風をする。叔母は重ねて、
「本当に、怖いもんですね。元はあんな寝入った子じゃなかったが――どうもはしゃぎ過ぎるくらい活溌でしたからね。それが二三年見ないうちに、まるで別の人みたように老けちまって。今じゃあなたより御爺さん御爺さんしていますよ」と云う。
「真逆」と叔父がまた答える。
「いえ、頭や顔は別として、様子がさ」と叔母がまた弁解する。
こんな会話が老夫婦の間に取り換わされたのは、宗助が出京して以来一度や二度ではなかった。実際彼は叔父の所へ来ると、老人の眼に映る通りの人間に見えた。
御米はどう云うものか、新橋へ着いた時、老人夫婦に紹介されたぎり、かつて叔父の家の敷居を跨いだ事がない。むこうから見えれば叔父さん叔母さんと丁寧に接待するが、帰りがけに、
「どうです、ちと御出かけなすっちゃ」などと云われると、ただ、
「ありがとう」と頭を下げるだけで、ついぞ出掛けた試はなかった。さすがの宗助さえ一度は、
「叔父さんの所へ一度行って見ちゃ、どうだい」と勧めた事があるが、
「でも」と変な顔をするので、宗助はそれぎりけっしてその事を云い出さなかった。
両家族はこの状態で約一年ばかりを送った。すると宗助よりも気分は若いと許された叔父が突然死んだ。病症は脊髄脳膜炎とかいう劇症で、二三日風邪の気味で寝ていたが、便所へ行った帰りに、手を洗おうとして、柄杓を持ったまま卒倒したなり、一日経つか経たないうちに冷たくなってしまったのである。
「御米、叔父はとうとう話をしずに死んでしまったよ」と宗助が云った。
「あなたまだ、あの事を聞くつもりだったの、あなたも随分執念深いのね」と御米が云った。
それからまた一年ばかり経ったら、叔父の子の安之助が大学を卒業して、小六が高等学校の二年生になった。叔母は安之助といっしょに中六番町に引き移った。
三年目の夏休みに小六は房州の海水浴へ行った。そこに一月余りも滞在しているうちに九月になり掛けたので、保田から向うへ突切って、上総の海岸を九十九里伝いに、銚子まで来たが、そこから思い出したように東京へ帰った。宗助の所へ見えたのは、帰ってから、まだ二三日しか立たない、残暑の強い午後である。真黒に焦げた顔の中に、眼だけ光らして、見違えるように蛮色を帯びた彼は、比較的日の遠い座敷へ這入ったなり横になって、兄の帰りを待ち受けていたが、宗助の顔を見るや否や、むっくり起き上がって、
「兄さん、少し御話があって来たんですが」と開き直られたので、宗助は少し驚ろいた気味で、暑苦しい洋服さえ脱ぎ更えずに、小六の話を聞いた。
小六の云うところによると、二三日前彼が上総から帰った晩、彼の学資はこの暮限り、気の毒ながら出してやれないと叔母から申し渡されたのだそうである。小六は父が死んで、すぐと叔父に引き取られて以来、学校へも行けるし、着物も自然にできるし、小遣も適宜に貰えるので、父の存生中と同じように、何不足なく暮らせて来た惰性から、その日その晩までも、ついぞ学資と云う問題を頭に思い浮べた事がなかったため、叔母の宣告を受けた時は、茫然してとかくの挨拶さえできなかったのだと云う。
叔母は気の毒そうに、なぜ小六の世話ができなくなったかを、女だけに、一時間も掛かって委しく説明してくれたそうである。それには叔父の亡くなった事やら、継いで起る経済上の変化やら、また安之助の卒業やら、卒業後に控えている結婚問題やらが這入っていたのだと云う。
「できるならば、せめて高等学校を卒業するまでと思って、今日までいろいろ骨を折ったんだけれども」
叔母はこう云ったと小六は繰り返した。小六はその時ふと兄が、先年父の葬式の時に出京して、万事を片づけた後、広島へ帰るとき、小六に、御前の学資は叔父さんに預けてあるからと云った事があるのを思い出して、叔母に始めて聞いて見ると、叔母は案外な顔をして、
「そりゃ、あの時、宗さんが若干か置いて行きなすった事は、行きなすったが、それはもうありゃしないよ。叔父さんのまだ生きて御出の時分から、御前の学資は融通して来たんだから」と答えた。
小六は兄から自分の学資がどれほどあって、何年分の勘定で、叔父に預けられたかを、聞いておかなかったから、叔母からこう云われて見ると、一言も返しようがなかった。
「御前も一人じゃなし、兄さんもある事だからよく相談をして見たら好いだろう。その代り私も宗さんに逢って、とっくり訳を話しましょうから。どうも、宗さんも余まり近頃は御出でないし、私も御無沙汰ばかりしているのでね、つい御前の事は御話をする訳にも行かなかったんだよ」と叔母は最後につけ加えたそうである。
小六から一部始終を聞いた時、宗助はただ弟の顔を眺めて、一口、
「困ったな」と云った。昔のように赫と激して、すぐ叔母の所へ談判に押し掛ける気色もなければ、今まで自分に対して、世話にならないでも済む人のように、よそよそしく仕向けて来た弟の態度が、急に方向を転じたのを、悪いと思う様子も見えなかった。
自分の勝手に作り上げた美くしい未来が、半分壊れかかったのを、さも傍の人のせいででもあるかのごとく心を乱している小六の帰る姿を見送った宗助は、暗い玄関の敷居の上に立って、格子の外に射す夕日をしばらく眺めていた。
その晩宗助は裏から大きな芭蕉の葉を二枚剪って来て、それを座敷の縁に敷いて、その上に御米と並んで涼みながら、小六の事を話した。
「叔母さんは、こっちで、小六さんの世話をしろって云う気なんじゃなくって」と御米が聞いた。
「まあ、逢って聞いて見ないうちは、どう云う料簡か分らないがね」と宗助が云うと、御米は、
「きっとそうよ」と答えながら、暗がりで団扇をはたはた動かした。宗助は何も云わずに、頸を延ばして、庇と崖の間に細く映る空の色を眺めた。二人はそのまましばらく黙っていたが、良あって、
「だってそれじゃ無理ね」と御米がまた云った。
「人間一人大学を卒業させるなんて、おれの手際じゃ到底駄目だ」と宗助は自分の能力だけを明らかにした。
会話はそこで別の題目に移って、再び小六の上にも叔母の上にも帰って来なかった。それから二三日するとちょうど土曜が来たので、宗助は役所の帰りに、番町の叔母の所へ寄って見た。叔母は、
「おやおや、まあ御珍らしい事」と云って、いつもよりは愛想よく宗助を款待してくれた。その時宗助は厭なのを我慢して、この四五年来溜めて置いた質問を始めて叔母に掛けた。叔母は固よりできるだけは弁解しない訳に行かなかった。
叔母の云うところによると、宗助の邸宅を売払った時、叔父の手に這入った金は、たしかには覚えていないが、何でも、宗助のために、急場の間に合せた借財を返した上、なお四千五百円とか四千三百円とか余ったそうである。ところが叔父の意見によると、あの屋敷は宗助が自分に提供して行ったのだから、たといいくら余ろうと、余った分は自分の所得と見傚して差支ない。しかし宗助の邸宅を売って儲けたと云われては心持が悪いから、これは小六の名義で保管して置いて、小六の財産にしてやる。宗助はあんな事をして廃嫡にまでされかかった奴だから、一文だって取る権利はない。
「宗さん怒っちゃいけませんよ。ただ叔父さんの云った通りを話すんだから」と叔母が断った。宗助は黙ってあとを聞いていた。
小六の名義で保管されべき財産は、不幸にして、叔父の手腕で、すぐ神田の賑やかな表通りの家屋に変形した。そうして、まだ保険をつけないうちに、火事で焼けてしまった。小六には始めから話してない事だから、そのままにして、わざと知らせずにおいた。
「そう云う訳でね、まことに宗さんにも、御気の毒だけれども、何しろ取って返しのつかない事だから仕方がない。運だと思って諦らめて下さい。もっとも叔父さんさえ生きていれば、またどうともなるんでしょうさ。小六一人ぐらいそりゃ訳はありますまいよ。よしんば、叔父さんがいなさらない、今にしたって、こっちの都合さえ好ければ、焼けた家と同じだけのものを、小六に返すか、それでなくっても、当人の卒業するまでぐらいは、どうにかして世話もできるんですけれども」と云って叔母はまたほかの内幕話をして聞かせた。それは安之助の職業についてであった。
安之助は叔父の一人息子で、この夏大学を出たばかりの青年である。家庭で暖かに育った上に、同級の学生ぐらいよりほかに交際のない男だから、世の中の事にはむしろ迂濶と云ってもいいが、その迂濶なところにどこか鷹揚な趣を具えて実社会へ顔を出したのである。専門は工科の器械学だから、企業熱の下火になった今日といえども、日本中にたくさんある会社に、相応の口の一つや二つあるのは、もちろんであるが、親譲りの山気がどこかに潜んでいるものと見えて、自分で自分の仕事をして見たくてならない矢先へ、同じ科の出身で、小規模ながら専有の工場を月島辺に建てて、独立の経営をやっている先輩に出逢ったのが縁となって、その先輩と相談の上、自分も幾分かの資本を注ぎ込んで、いっしょに仕事をしてみようという考になった。叔母の内幕話と云ったのはそこである。
「でね、少しあった株をみんなその方へ廻す事にしたもんだから、今じゃ本当に一文なし同然な仕儀でいるんですよ。それは世間から見ると、人数は少なし、家邸は持っているし、楽に見えるのも無理のないところでしょうさ。この間も原の御母さんが来て、まああなたほど気楽な方はない、いつ来て見ても万年青の葉ばかり丹念に洗っているってね。真逆そうでも無いんですけれども」と叔母が云った。
宗助が叔母の説明を聞いた時は、ぼんやりしてとかくの返事が容易に出なかった。心のなかで、これは神経衰弱の結果、昔のように機敏で明快な判断を、すぐ作り上げる頭が失くなった証拠だろうと自覚した。叔母は自分の云う通りが、宗助に本当と受けられないのを気にするように、安之助から持ち出した資本の高まで話した。それは五千円ほどであった。安之助は当分の間、わずかな月給と、この五千円に対する利益配当とで暮らさなければならないのだそうである。
「その配当だって、まだどうなるか分りゃしないんでさあね。旨く行ったところで、一割か一割五分ぐらいなものでしょうし、また一つ間違えばまるで煙にならないとも限らないんですから」と叔母がつけ加えた。
宗助は叔母の仕打に、これと云う目立った阿漕なところも見えないので、心の中では少なからず困ったが、小六の将来について一口の掛合もせずに帰るのはいかにも馬鹿馬鹿しい気がした。そこで今までの問題はそこに据えっきりにして置いて、自分が当時小六の学資として叔父に預けて行った千円の所置を聞き糺して見ると、叔母は、
「宗さん、あれこそ本当に小六が使っちまったんですよ。小六が高等学校へ這入ってからでも、もうかれこれ七百円は掛かっているんですもの」と答えた。
宗助はついでだから、それと同時に、叔父に保管を頼んだ書画や骨董品の成行を確かめて見た。すると、叔母は、
「ありあとんだ馬鹿な目に逢って」と云いかけたが、宗助の様子を見て、
「宗さん、何ですか、あの事はまだ御話をしなかったんでしたかね」と聞いた。宗助がいいえと答えると、
「おやおや、それじゃ叔父さんが忘れちまったんですよ」と云いながら、その顛末を語って聞かした。
宗助が広島へ帰ると間もなく、叔父はその売捌方を真田とかいう懇意の男に依頼した。この男は書画骨董の道に明るいとかいうので、平生そんなものの売買の周旋をして諸方へ出入するそうであったが、すぐさま叔父の依頼を引き受けて、誰某が何を欲しいと云うから、ちょっと拝見とか、何々氏がこう云う物を希望だから、見せましょうとか号して、品物を持って行ったぎり、返して来ない。催促すると、まだ先方から戻って参りませんからとか何とか言訳をするだけでかつて埒の明いた試がなかったが、とうとう持ち切れなくなったと見えて、どこかへ姿を隠してしまった。
「でもね、まだ屏風が一つ残っていますよ。この間引越の時に、気がついて、こりゃ宗さんのだから、今度ついでがあったら届けて上げたらいいだろうって、安がそう云っていましたっけ」
叔母は宗助の預けて行った品物にはまるで重きを置いていないような、ものの云い方をした。宗助も今日まで放っておくくらいだから、あまりその方面には興味を有ち得なかったので、少しも良心に悩まされている気色のない叔母の様子を見ても、別に腹は立たなかった。それでも、叔母が、
「宗さん、どうせ家じゃ使っていないんだから、なんなら持っておいでなすっちゃどうです。この頃はああいうものが、大変価が出たと云う話じゃありませんか」と云ったときは、実際それを持って帰る気になった。
納戸から取り出して貰って、明るい所で眺めると、たしかに見覚のある二枚折であった。下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、その横の空いた所へ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返している色の乾いた様から、大福ほどな大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、父の生きている当時を憶い起さずにはいられなかった。
父は正月になると、きっとこの屏風を薄暗い蔵の中から出して、玄関の仕切りに立てて、その前へ紫檀の角な名刺入を置いて、年賀を受けたものである。その時はめでたいからと云うので、客間の床には必ず虎の双幅を懸けた。これは岸駒じゃない岸岱だと父が宗助に云って聞かせた事があるのを、宗助はいまだに記憶していた。この虎の画には墨が着いていた。虎が舌を出して谷の水を呑んでいる鼻柱が少し汚されたのを、父は苛く気にして、宗助を見るたびに、御前ここへ墨を塗った事を覚えているか、これは御前の小さい時分の悪戯だぞと云って、おかしいような恨めしいような一種の表情をした。
宗助は屏風の前に畏まって、自分が東京にいた昔の事を考えながら、
「叔母さん、じゃこの屏風はちょうだいして行きましょう」と云った。
「ああああ、御持ちなさいとも。何なら使に持たせて上げましょう」と叔母は好意から申し添えた。
宗助は然るべく叔母に頼んで、その日はそれで切り上げて帰った。晩食の後御米といっしょにまた縁側へ出て、暗い所で白地の浴衣を並べて、涼みながら、画の話をした。
「安さんには、御逢いなさらなかったの」と御米が聞いた。
「ああ、安さんは土曜でも何でも夕方まで、工場にいるんだそうだ」
「随分骨が折れるでしょうね」
御米はそう云ったなり、叔父や叔母の処置については、一言の批評も加えなかった。
「小六の事はどうしたものだろう」と宗助が聞くと、
「そうね」と云うだけであった。
「理窟を云えば、こっちにも云い分はあるが、云い出せば、とどのつまりは裁判沙汰になるばかりだから、証拠も何もなければ勝てる訳のものじゃなし」と宗助が極端を予想すると、
「裁判なんかに勝たなくたってもいいわ」と御米がすぐ云ったので、宗助は苦笑してやめた。
「つまりおれがあの時東京へ出られなかったからの事さ」
「そうして東京へ出られた時は、もうそんな事はどうでもよかったんですもの」
夫婦はこんな話をしながら、また細い空を庇の下から覗いて見て、明日の天気を語り合って蚊帳に這入った。
次の日曜に宗助は小六を呼んで、叔母の云った通りを残らず話して聞かせて、
「叔母さんが御前に詳しい説明をしなかったのは、短兵急な御前の性質を知ってるせいか、それともまだ小供だと思ってわざと略してしまったのか、そこはおれにも分らないが、何しろ事実は今云った通りなんだよ」と教えた。
小六にはいかに詳しい説明も腹の足しにはならなかった。ただ、
「そうですか」と云ってむずかしい不満な顔をして宗助を見た。
「仕方がないよ。叔母さんだって、安さんだって、そう悪い料簡はないんだから」
「そりゃ、分っています」と弟は峻しい物の云い方をした。
「じゃおれが悪いって云うんだろう。おれは無論悪いよ。昔から今日まで悪いところだらけな男だもの」
宗助は横になって煙草を吹かしながら、これより以上は何とも語らなかった。小六も黙って、座敷の隅に立ててあった二枚折の抱一の屏風を眺めていた。
「御前あの屏風を覚えているかい」とやがて兄が聞いた。
「ええ」と小六が答えた。
「一昨日佐伯から届けてくれた。御父さんの持ってたもので、おれの手に残ったのは、今じゃこれだけだ。これが御前の学資になるなら、今すぐにでもやるが、剥げた屏風一枚で大学を卒業する訳にも行かずな」と宗助が云った。そうして苦笑しながら、
「この暑いのに、こんなものを立てて置くのは、気狂じみているが、入れておく所がないから、仕方がない」と云う述懐をした。
小六はこの気楽なような、ぐずのような、自分とは余りに懸け隔たっている兄を、いつも物足りなくは思うものの、いざという場合に、けっして喧嘩はし得なかった。この時も急に癇癪の角を折られた気味で、
「屏風はどうでも好いが、これから先僕はどうしたもんでしょう」と聞き出した。
「それは問題だ。何しろことしいっぱいにきまれば好い事だから、まあよく考えるさ。おれも考えて置こう」と宗助が云った。
弟は彼の性質として、そんな中ぶらりんの姿は嫌である、学校へ出ても落ちついて稽古もできず、下調も手につかないような境遇は、とうてい自分には堪えられないと云う訴を切にやり出したが、宗助の態度は依然として変らなかった。小六があまり癇の高い不平を並べると、
「そのくらいな事でそれほど不平が並べられれば、どこへ行ったって大丈夫だ。学校をやめたって、いっこう差支ない。御前の方がおれよりよっぽどえらいよ」と兄が云ったので、話はそれぎり頓挫して、小六はとうとう本郷へ帰って行った。
宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日へ御米といっしょに出掛けた。そうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つずつ持って帰って来た。夜露にあてた方がよかろうと云うので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた。
蚊帳の中へ這入った時、御米は、
「小六さんの事はどうなって」と夫に聞くと、
「まだどうもならないさ」と宗助は答えたが、十分ばかりの後夫婦ともすやすや寝入った。
翌日眼が覚めて役所の生活が始まると、宗助はもう小六の事を考える暇を有たなかった。家へ帰って、のっそりしている時ですら、この問題を確的眼の前に描いて明らかにそれを眺める事を憚かった。髪の毛の中に包んである彼の脳は、その煩わしさに堪えなかった。昔は数学が好きで、随分込み入った幾何の問題を、頭の中で明暸な図にして見るだけの根気があった事を憶い出すと、時日の割には非常に烈しく来たこの変化が自分にも恐ろしく映った。
それでも日に一度ぐらいは小六の姿がぼんやり頭の奥に浮いて来る事があって、その時だけは、あいつの将来も何とか考えておかなくっちゃならないと云う気も起った。しかしすぐあとから、まあ急ぐにも及ぶまいぐらいに、自分と打ち消してしまうのが常であった。そうして、胸の筋が一本鉤に引っ掛ったような心を抱いて、日を暮らしていた。
そのうち九月も末になって、毎晩天の河が濃く見えるある宵の事、空から降ったように安之助がやって来た。宗助にも御米にも思い掛けないほど稀な客なので、二人とも何か用があっての訪問だろうと推したが、はたして小六に関する件であった。
この間月島の工場へひょっくり小六がやって来て云うには、自分の学資についての詳しい話は兄から聞いたが、自分も今まで学問をやって来て、とうとう大学へ這入れずじまいになるのはいかにも残念だから、借金でも何でもして、行けるところまで行きたいが、何か好い工夫はあるまいかと相談をかけるので、安之助はよく宗さんにも話して見ようと答えると、小六はたちまちそれを遮ぎって、兄はとうてい相談になってくれる人じゃない。自分が大学を卒業しないから、他も中途でやめるのは当然だぐらいに考えている。元来今度の事も元を糺せば兄が責任者であるのに、あの通りいっこう平気なもので、他が何を云っても取り合ってくれない。だから、ただ頼りにするのは君だけだ。叔母さんに正式に断わられながら、また君に依頼するのはおかしいようだが、君の方が叔母さんより話が分るだろうと思って来たと云って、なかなか動きそうもなかったそうである。
安之助は、そんな事はない、宗さんも君の事ではだいぶ心配して、近いうちまた家へ相談に来るはずになっているんだからと慰めて、小六を帰したんだと云う。帰るときに、小六は袂から半紙を何枚も出して、欠席届が入用だからこれに判を押してくれと請求して、僕は退学か在学か片がつくまでは勉強ができないから、毎日学校へ出る必要はないんだと云ったそうである。
安之助は忙がしいとかで、一時間足らず話して帰って行ったが、小六の所置については、両人の間に具体的の案は別に出なかった。いずれ緩くりみんなで寄ってきめよう、都合がよければ小六も列席するが好かろうというのが別れる時の言葉であった。二人になったとき、御米は宗助に、
「何を考えていらっしゃるの」と聞いた。宗助は両手を兵児帯の間に挟んで、心持肩を高くしたなり、
「おれももう一返小六みたようになって見たい」と云った。「こっちじゃ、向がおれのような運命に陥るだろうと思って心配しているのに、向じゃ兄貴なんざあ眼中にないから偉いや」
御米は茶器を引いて台所へ出た。夫婦はそれぎり話を切り上げて、また床を延べて寝た。夢の上に高い銀河が涼しく懸った。
次の週間には、小六も来ず、佐伯からの音信もなく、宗助の家庭はまた平日の無事に帰った。夫婦は毎朝露に光る頃起きて、美しい日を廂の上に見た。夜は煤竹の台を着けた洋灯の両側に、長い影を描いて坐っていた。話が途切れた時はひそりとして、柱時計の振子の音だけが聞える事も稀ではなかった。
それでも夫婦はこの間に小六の事を相談した。小六がもしどうしても学問を続ける気なら無論の事、そうでなくても、今の下宿を一時引き上げなければならなくなるのは知れているが、そうすればまた佐伯へ帰るか、あるいは宗助の所へ置くよりほかに途はない。佐伯ではいったんああ云い出したようなものの、頼んで見たら、当分宅へ置くぐらいの事は、好意上してくれまいものでもない。が、その上修業をさせるとなると、月謝小遣その他は宗助の方で担任しなければ義理が悪い。ところがそれは家計上宗助の堪えるところでなかった。月々の収支を事細かに計算して見た両人は、
「とうてい駄目だね」
「どうしたって無理ですわ」と云った。
夫婦の坐っている茶の間の次が台所で、台所の右に下女部屋、左に六畳が一間ある。下女を入れて三人の小人数だから、この六畳には余り必要を感じない御米は、東向の窓側にいつも自分の鏡台を置いた。宗助も朝起きて顔を洗って、飯を済ますと、ここへ来て着物を脱ぎ更えた。
「それよりか、あの六畳を空けて、あすこへ来ちゃいけなくって」と御米が云い出した。御米の考えでは、こうして自分の方で部屋と食物だけを分担して、あとのところを月々いくらか佐伯から助て貰ったら、小六の望み通り大学卒業までやって行かれようと云うのである。
「着物は安さんの古いのや、あなたのを直して上げたら、どうかなるでしょう」と御米が云い添えた。実は宗助にもこんな考が、多少頭に浮かんでいた。ただ御米に遠慮がある上に、それほど気が進まなかったので、つい口へ出さなかったまでだから、細君からこう反対に相談を掛けられて見ると、固よりそれを拒むだけの勇気はなかった。
小六にその通りを通知して、御前さえそれで差支なければ、おれがもう一遍佐伯へ行って掛合って見るがと、手紙で問い合せると、小六は郵便の着いた晩、すぐ雨の降る中を、傘に音を立ててやって来て、もう学資ができでもしたように嬉しがった。
「何、叔母さんの方じゃ、こっちでいつまでもあなたの事を放り出したまんま、構わずにおくもんだから、それでああおっしゃるのよ。なに兄さんだって、もう少し都合が好ければ、疾うにもどうにかしたんですけれども、御存じの通りだから実際やむを得なかったんですわ。しかしこっちからこう云って行けば、叔母さんだって、安さんだって、それでも否だとは云われないわ。きっとできるから安心していらっしゃい。私受合うわ」
御米にこう受合って貰った小六は、また雨の音を頭の上に受けて本郷へ帰って行った。しかし中一日置いて、兄さんはまだ行かないんですかと聞きに来た。また三日ばかり過ぎてから、今度は叔母さんの所へ行って聞いたら、兄さんはまだ来ないそうだから、なるべく早く行くように勧めてくれと催促して行った。
宗助が行く行くと云って、日を暮らしているうちに世の中はようやく秋になった。その朗らかな或日曜の午後に、宗助はあまり佐伯へ行くのが後れるので、この要件を手紙に認めて番町へ相談したのである。すると、叔母から安之助は神戸へ行って留守だと云う返事が来たのである。
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底本:「夏目漱石全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年3月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:高橋知仁
1999年4月22日公開
2004年2月28日修正
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