吾輩は猫である(11)
十一
床の間の前に碁盤を中に
「ただはやらない。負けた方が何か
「そんな事をすると、せっかくの
「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。
「
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでも構わない」
「さすがに仙人だけあって
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば
「定石にそんなのはないよ」
「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が
「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ
「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんや
肩
「そうおいでになったと、よろしい。薫風
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ
「どうするも、こうするもないさ。一剣天に
「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい
「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは
「這入って失敬
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって
「そんな事は僕は知らんよ」
「知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「君さっきから、六
「記憶のいい男だな。
「しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」
「君は最初から負けても構わない流じゃないか」
「僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」
「飛んだ悟道だ。相変らず
「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは
「ハハハハもうたいてい
「
「アーメン」と迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと
床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に
この鰹節の
「実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々
「そう急いでくるには及ばないさ」と主人は例のごとく
「急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く
「鰹節じゃないか」
「ええ、国の名産です」
「名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ」と主人は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行って
「かいだって、鰹節の
「少し大きいのが名産たる
「まあ食べて御覧なさい」
「食べる事はどうせ食べるが、こいつは何だか先が欠けてるじゃないか」
「それだから早く持って来ないと心配だと云うのです」
「なぜ?」
「なぜって、そりゃ
「そいつは危険だ。
「なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません」
「全体どこで
「船の中でです」
「船の中? どうして」
「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。
「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう
「なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。
「少しきたないようだぜ」
「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」
「ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない」
「それじゃ
「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」
「ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが……」と云いかけると
「なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。行く春や重たき
東風君は真面目で「新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し
「そうかね、
「そんな無駄口を
「勝ちたくても、負けたくても、相手が
「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と云い放った。
「え? もう打ったのかい」
「打ったとも、とうに打ったさ」
「どこへ」
「この白をはすに延ばした」
「なあるほど。この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ
「そんな碁があるものか」
「そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして
「どうか願います。ついでにお払いの方も願いたいもので」
「そんな古いものが役に立つものか」と何にも知らない主人は
「君は人間の
「君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ
「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を
「当り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
「それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。――おい苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は
「だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい」と主人が
「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。
「うむ、一と通りなら誰にでも出来るさ」
「同じ芸術だから
「いいだろう。君ならきっと上手になるよ」
「君はいつ頃から始めたのかね」
「高等学校時代さ。――先生
「いいえ、まだ聞かない」
「高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい」
「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」
「全く天才だね」
「独習なら天才と限った事もなかろう」と寒月君はつんとする。天才と云われてつんとするのは寒月君だけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どう云う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は
「何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙君いい加減に切り上げようじゃないか」
「まだ片づかない所が二三箇所ある」
「あってもいい。大概な所なら、君に進上する」
「そう云ったって、貰う訳にも行かない」
「禅学者にも似合わん
「そんな事はありません」
「でも、
「まさか。だれがそんな事を云いました」
「だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、
「質朴剛健でたのもしい気風だ」
「まだたのもしい事がある。あすこには
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。
独
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに石を上げて勘定をしろ? やに
「しかし
「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して来た。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を
「土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に
「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、
「女もあの通り黒いのです」
「それでよく貰い手があるね」
「だって
「
「黒い方がいいだろう。
「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で
「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が云うと、
「そんな事を云うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。
「なに大丈夫だ」
「いないのかい」
「小供を連れて、さっき出掛けた」
「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」
「そうして勝手に帰ってくるのかい」
「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と云うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は
「
「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六
「君も妻君難だろうと云うのさ」
「アハハハハ別段難でもないさ。僕の
「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」
「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の
「御名論だ。僕などはとうてい絶対の
「
「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから
「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく
「向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな
「へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の
「捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには
「そうだろう
「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと云うので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君は
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは
「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙に
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと云うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。無論いいのはありません。ただヴァイオリンと云う名が
「危険だね。
「いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と東風君はいよいよ感心する。
「ええ実際
「
鏘
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。
「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは
「
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが
「何だい、その細長い影と云うのは」
「渋柿の皮を
「ふん、それから」
「仕方がないから、
「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。
「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君がきく。
「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、聞いたよ」
「
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあ先生そう
「いつまで行っても同じ事じゃないか」
「それから床を出て障子を開けて、
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」
「私もじれったくてね」
「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうも
「聞く方も少しは困るよ」と東風君も
「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても
「話す私も
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の
然
「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでも真面目で
「進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」
「そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて云い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に
「それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」
「では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、
「それは好都合だ」と独仙君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。
「いよいよ
「人迹の稀なはあんまり
「学校まではたった四五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから……」
「それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君はなかなか承知しない。
「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「それで人迹稀なんですか」と正面攻撃を
「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と云うと、
「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。
「南郷街道をついに二丁来て、
「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。
「楽器のある店は
「なかなかでもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから
「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……
「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わず
「とうとう買ったかい」と主人がきく。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」
「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ
「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように
主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて
「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」
「なるほどこりゃむずかしかろう」
「で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が
「古人を待つ身につらき
「犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでもまだありませんよ」
「僕は何だか君の話をきくと、
「それから
「十時になったかい」
「惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ
「秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。君は
「何かわるい事でもしたんですか」
「これからしようと云うところさ」
「
「人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。
「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」
「もう一
寒月先生はにやにやと笑った。
「そう
この時主人はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」と
「思い切って飛び込んで、
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「みんな
「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっと上がった。やれやれ長い
「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」
「まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」
「根気はとにかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですから、もう少し話します」
「話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」
「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」
「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」
「まだ売るどこじゃありません」
「そんならなお聞かなくてもいい」
「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」
「ざっとでなくてもいいから
「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは
「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽な事を云う。
「天井はないさ。
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「どこへ入れたと思う」
「わからないね。戸袋のなかか」
「いいえ」
「夜具にくるんで戸棚へしまったか」
「いいえ」
東風君と寒月君はヴァイオリンの
「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「何だって? Quid aliud est mulier nisi amiciti
inimica[#「amiciti
」は底本では「amiticiae」]……こりゃ君
「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」
「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」
「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」
「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」
「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」
「従卒でもいいから何だ」
「まあ羅甸語などはあとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴
「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時
「そいつは
「ええ、ちと調和せんです」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。
「先生今日は
「今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における
「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は
「なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と無茶苦茶を云うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながらまた進行する。
「それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を
「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、
「音さえ出なければどうでも出来るんですが……」
「ちょっと待った。音さえ出なけりゃと云うが、音が出なくても
「おれが鈴木の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。
「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君の事だ。なるほど云われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中
「黙っていろ。
「ハハハハ、それで
三人は思わず
「まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し
「何です、呑みびらかすと云うのは」
「
「へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」
「ところが貰わないね。僕も男子だ」
「へえ、貰っちゃいけないんですか」
「いけるかも知れないが、貰わないね」
「それでどうしました」
「貰わないで
「おやおや」
「奴さん
「湯には這入らなかったのですか」
「這入ろうと思ったら
「何とも云えませんね。煙草の
「ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど
「じいさん何とかいいましたか」
「さすが年の功だね、何にも言わずに
「そんなのが江戸趣味と云うのでしょうか」
「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと
「煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうヴァイオリンは片ついたかい」と主人はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。
「まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか云いましたね、え、独仙先生、――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう」
「おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」
「え」と云いながら顔を上げた独仙君の
「ああ、眠かった。山上の白雲わが
「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい」
「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君」
「どうするのかな、とんと
「これからいよいよ弾くところです」
「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
「君は
「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く
「知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「伺わなくても
「ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの
「いよいよ出たね」と東風君が云うと「
「まず弓を取って、
「下手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が
「実際これが自分の魂だと思うと、
「全く天才だ」と云う東風君について「全く
「ありがたい事に弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの
「何とでも思ってやるから安心して弾くがいい」
「まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも
「どっかへ行くのかい」
「まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。……」
「おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」
「しゃべるのは君だけだぜ」
「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」
「ヴァイオリンを小脇に
「そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」
「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」
「そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ
「一体どこへ行くんだい」
「まあ聞いてたまい。ようやくの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと
「知らないね」
「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を
「飛んだ事になって来たね」と迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、独仙君が「面白い
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、
「狐でもいる所かい」と東風君がきいた。
「こう云う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響を起して満山の秋の
「やっと安心した」と迷亭君が胸を
「
「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、
「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンは弾かないのかい」
「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」
「何だか君の話は物足りないような気がする」
「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見廻わして大得意のようすである。
「ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心惨憺たるものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。
「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、
「
「そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り学校へ行って
「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、
「だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ」と主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、
「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚って誰の結婚です」
「君のさ」
「私が誰と結婚するんです」
「金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありゃしません、そんな事を言い
「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」
「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に
「まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです」
「それ見たまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠を磨いてくれたまえ」
「へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士にはならないでもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、私にはもう
「いや、こりゃえらい。いつの
「子供はまだですよ。そう結婚して一と月もたたないうちに子供が生れちゃ事でさあ」
「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事見たような質問をかける。
「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この
「たった三本祝うのはけちだな」
「なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです」
「じゃ御国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」
「ええ、真黒です。ちょうど私には相当です」
「それで金田の方はどうする気だい」
「どうする気でもありません」
「そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ迷亭」
「わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合せをするようなものだ。要するに鉢合せをしないでもすむところをわざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。すでに余計な事なら誰と誰の鉢が合ったって構いっこないよ。ただ気の毒なのは
「なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向け
「さすが詩人だけあって自由自在なものだね」
「金田の方へ断わったかい」と主人はまだ金田を気にしている。
「いいえ。断わる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていれば沢山です。――なあに黙ってても沢山ですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかかって一部始終残らず知れていますよ」
探偵と云う
「ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでも
「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気
「
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ
「なあに、いいですよ。ああら物々し
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明の
今度は主人の番である。主人はもったい
「それは僕が
「おや
「勝手に云うがいい、云う事もない癖に」
「ところがある。
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。
「これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから、正直でいいと云うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」
「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に
「なるほど面白い解釈だ」と独仙君が云い出した。こんな問題になると独仙君はなかなか
「それが英吉利趣味ですか」これは寒月君の質問であった。
「僕はこんな話を聞いた」と主人が
ンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで
「こんな
「カーライルの事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ」と寒月君が短評を試みた。
「親切の方の自覚心はまあいいがね」と独仙君は進行する。「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で
「
「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。「だから
「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥君はにやにや笑いながら「これでなかなかそう
「時に金田のようなのは何で斃れるだろう」
「女房は鼻で斃れ、主人は
「娘は?」
「娘は――娘は見た事がないから何とも云えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの
「それは少しひどい」と新体詩を捧げただけに東風君が異議を申し立てた。
「だから
「そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると
「とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が
「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。
「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として
「君のように云うとつまり
「そうさ、禅語に
「そうして君はその標本と云う訳かね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ」
「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
迷亭と独仙が妙な
「どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても死ななければならん事が分明になった時に第二の問題が起る」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している」
「なるほど」
「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが
「
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンスと云う人のかいた脚本のなかにしきりに自殺を主張する哲学者があって……」
「自殺するんですか」
「ところが惜しい事にしないのだがね。しかし今から千年も立てばみんな実行するに相違ないよ。万年の
「大変な事になりますね」
「なるよきっとなる。そうなると自殺も大分研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代りに自殺学を正科として授けるようになる」
「妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生御聞きになりましたか。苦沙弥先生の御名論を」
「聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう云うね。諸君公徳などと云う野蛮の遺風を
「なるほど面白い講義をしますね」
「まだ面白い事があるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような
「なぜです」
「なぜって今の人間は
「どうも先生の
「冗談と云えば冗談だが、予言と云えば予言かも知れない。真理に徹底しないものは、とかく眼前の現象世界に束縛せられて
「
「
「今でもありゃしないか」
「あるかも知れない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て河へ
「冬もやるんですか」
「その辺はたしかに知らんが、とにかく
「詩的ですね。新体詩になりますね。なんと云う所ですか」と東風君は
「コルドヴァさ。そこで地方の若いものが、女といっしょに泳ぐ事も出来ず、さればと云って遠くから判然その姿を見る事も許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた迷亭君は
「お寺の鐘つき番に
「
「橋の上を見ると男が大勢立って
「それで」
「それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないと駄目だと云う事さ」
「なるほどありがたい御説教だ。眼前の習慣に迷わされの御話しを僕も一つやろうか。この間ある雑誌をよんだら、こう云う
「そう云うときまってるかい」と主人は相変らず
「まあさ、小説だよ。云うとしておくんだ。そこで僕がなに
「タイムスの百科全書見たようですね」
「タイムスはたしかだが、僕のはすこぶる
「無論五年でしょう」
「無論五年。で五年の歳月は長いと思うか短かいと思うか、独仙君」
「
「何だそりゃ
「ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう」と寒月君が笑うと、主人はいささか真面目で、
「いやそう云う事は全くあるよ。僕は大学の
「そら、そう云う人が現にここにいるからたしかなものだ。だから僕の
「かしこまりました。月賦は必ず六十回限りの事に致します」
「いや冗談のようだが、実際参考になる話ですよ、寒月君」と独仙君は寒月君に向いだした。「たとえばですね。今苦沙弥君か迷亭君が、君が無断で結婚したのが
「謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向うがあやまるなら特別、私の方ではそんな慾はありません」
「警察が君にあやまれと命じたらどうです」
「なおなお
「大臣とか華族ならどうです」
「いよいよもって御免蒙ります」
「それ見たまえ。昔と今とは人間がそれだけ変ってる。昔は
「そう云う
「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が云った。
「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは
「すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と寒月君は
「明治の
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと
「なければ結構だが、今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、
「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、僕は
「曲覚的かも知れないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほど御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんか
「先生方は
「そりゃ妻君を持ち立てだからさ」と迷亭君がすぐ解釈した。すると主人が突然こんな事を云い出した。
「
「少し驚きましたな。元来いつ頃の本ですか」と聞く。「タマス・ナッシと云って十六世紀の著書だ」
「いよいよ驚ろいた。その時分すでに私の
「いろいろ女の悪口があるが、その内には是非君の
「ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね」
「まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「みんな聞いてるよ。独身の僕まで聞いてるよ」
「アリストートル
「寒月君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「大きな碌でなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さああとを読んだ」
「或る人問う、いかなるかこれ
「賢者ってだれですか」
「名前は書いてない」
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「次にはダイオジニスが出ている。或る人問う、妻を
「先生
「ピサゴラス
「
「女に逢ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
「ソクラチスは婦女子を
「もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません」
「まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう」と迷亭先生がからかい掛けると、茶の間の方で
「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。
「こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「構うものか」と云った。
「奥さん、奥さん。いつの
茶の間ではしんとして答がない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
答はまだない。
「今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「存じません」と妻君は遠くで簡単な返事をした。寒月君はくすくすと笑った。
「私も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、
三平君今日はいつに似ず、真白なシャツに
「先生胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだ悪いとも何ともいやしない」
「いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が
「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくっても面白いのかい」
「
「僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。
「どうせ釣るなら、
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「僕は文学者じゃありません」
「そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、
「どうなってしまうのだ」
「
「そんな
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、大変信用が違います」
「寒月君が珠を磨くよりも楽な信用でいい、
「あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私が貰う事にしました」
「博士をですか」
「いいえ、金田家の令嬢をです。実は御気の毒と思うたですたい。しかし先方で是非貰うてくれ貰うてくれと云うから、とうとう貰う事に
「どうか御遠慮なく」と寒月君が云うと、主人は
「貰いたければ貰ったら、いいだろう」と
「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても心配するがものはないんだよ。だれか貰うと、さっき僕が云った通り、ちゃんとこんな立派な紳士の御
「あなたが東風君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
「ええ何か作りましょう、いつ
「いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。その代りです。
「勝手にするがいい」
「先生、譜にして下さらんか」
「馬鹿云え」
「だれか、このうちに音楽の出来るものはおらんですか」
「落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んで見たまえ。しかしシャンパンくらいじゃ承知しそうもない男だ」
「シャンパンもですね。
「ええ作りますとも、一瓶二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります」
「ただは頼みません、御礼はするです。シャンパンがいやなら、こう云う御礼はどうです」と云いながら上着の
「先生候補者がこれだけあるです。寒月君と東風君にこのうちどれか御礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月君につき付ける。
「いいですね。是非周旋を願いましょう」
「これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「それもいいですね。是非周旋して下さい」
「どれをです」
「どれでもいいです」
「君なかなか多情ですね。先生、これは博士の
「そうか」
「この方は性質が
「それをみんな貰う訳にゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあまり慾張りたい。君
「多妻主義じゃないですが、
「何でもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と主人は叱りつけるように言い放ったので、三平君は
「それじゃ、どれも貰わんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「何だいそのビールは」
「お見やげでござります。
主人は手を
「ここにいる諸君を披露会に招待しますが、みんな出てくれますか、出てくれるでしょうね」と云う。
「おれはいやだ」と主人はすぐ答える。
「なぜですか。私の一生に一度の
「不人情じゃないが、おれは出ないよ」
「着物がないですか。羽織と
「
「胃病が
「癒らんでも
「そげん
「僕かね、是非行くよ。出来るなら
「あなたはどうです」
「僕ですか、
「何ですかそれは、唐詩選ですか」
「何だかわからんです」
「わからんですか、困りますな。寒月君は出てくれるでしょうね。今までの関係もあるから」
「きっと出る事にします、僕の作った曲を楽隊が奏するのを、きき落すのは残念ですからね」
「そうですとも。君はどうです東風君」
「そうですね。出て
「そりゃ愉快だ。先生私は生れてから、こんな愉快な事はないです。だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んで
短かい秋の日はようやく暮れて、巻煙草の
主人は

主人は早晩胃病で死ぬ。金田のじいさんは慾でもう死んでいる。秋の
勝手へ廻る。秋風にがたつく戸が細目にあいてる間から吹き込んだと見えてランプはいつの
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起った。始めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく
それからしばらくの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人も迷亭も独仙も糞を
陶然とはこんな事を云うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事
我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって
水から
その時苦しいながら、こう考えた。こんな
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても
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底本:「夏目漱石全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年9月29日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月~1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
1999年9月17日公開
2004年2月5日修正
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